◆洋紙発祥の地、しかし、今は面影もない!
どうもffです。
前回、都電に触れてみました。私の住む王子というところで、関係性が高いものの一つとして・・・。
さて、都電とくれば、次は、と、考えてみたら、やっぱり「洋紙発祥」というキーワードがでてきました。昔は王子駅前のすこし外れにあった紙の博物館も今は飛鳥山に移っています。その「紙」のイメージに合致するのが王子という地にあります。そうそう、紙で思い出しましたが、駅前に大蔵省造幣局の研究所があり小展示室もあります。王子を含む北区には造幣局工場が滝野川にあり、紙幣専用の紙を作る工場が王子駅の隣駅、上中里駅にあったりします。何かと「紙」にまつわるのは不思議に感じます。
さて、私が子供の頃の話になります。かなり小さい(小学校前)頃になりますが、近所に十條製紙の広大な工場地で広がっていました。母親も十條製紙で働いていて、周囲に住んでいる人たちは、やはり多くは工場で働くことを目的に集まってきて住んでいたような印象があります。母も働いていましたが、よく、紙を扱う上で指を切るらしくテーピングをしている手の印象に強く残っています。また、王子は色々と工場も多く、工場の町といったい印象を強く感じていました。豊島の方には、科学工場もありモクモクと煙たなびくって光景が随所にありましたね! とにかく工場がおおかったと。
今、考えると、広大な十條製紙や科学工場(住友化学だったかなー)があるわで、環境的には良くなかったような感じですが、今はに流石に町は変貌をしてしまい、当時の面影はありません。十條製紙の跡地は団地やマンションになっています。ローカルになりますが「王子五丁目団地」は、十條製紙の跡地の一部だったんです。
「歴史的農業環境閲覧システム」より
そうそう、十條製紙の工場から直接、貨物で巨大なロール紙を運び出すための鉄道が引かれていました。そう「引き込み線」ってやつですね。それが、王子駅へと続き、そして当時の国鉄の線路に合流していました。王子駅の横の大きな敷地には日通もあり、当時、戦車など自衛隊関係の特殊車両が乗せられた貨物を良く見たのを覚えています。
【十條製紙の歴史】
1873年(明治6年) 渋沢栄一により「抄紙会社」設立
1875年(明治8年) 東京府下王子村に工場完成
1876年(明治9年) 商号を「製紙会社」に変更
1893年(明治26年) 創業地の名を冠し、「王子製紙」と改称
1910年(明治43年) 北海道に新聞用紙の国内自給目的の苫小牧工場完成
1933年(昭和8年) 富士製紙、樺太工業を合併、全国洋紙生産高80%生産
1949年(昭和24年) 王子製紙、過度経済力集中排除法で3社分割
東証一部に株式上場
1962年(昭和37年)自分が産声をあげ誕生(王子の隣町、豊島)
だったか、休憩所だったか母に連れられて入った記憶がある。
「広い敷地」という印象が濃厚で、社宅も敷地内にあったようです。
洞窟とかないのに、夜になるとコウモリがやたらに飛んでいたのを
覚えています。
1973年(昭和48年) 8月31日 十條工場閉鎖(数年間は空き地になり、良く、
遊ぶために入り込みました)ここで王子の地から製紙工場が消えた訳
です。
1993年(平成5年) 十條製紙が山陽国策パルプと合併、日本製紙株式会社に
社名変更
▲十條製紙時代のMAP
※この範囲内に、自分の家もありました(現在も同じ場所)。
当時は平屋の木造一階建てです。居間に6畳が二間、狭い台所あり。
現在、王子駅前の「サンスクエア」は、昭和43年8月6日に日本製紙株式会社
全額出資により誕生した複合レジャー施設なんです。製紙会社による経営ですね。
http://www.npd.jp/sun/shop.html
機会があれば、母親に当時の十條製紙の様子を聞いてみて、ここに載せられたらと思っています。
因みに父親は、当時の富士重工で働いていて、スバル360をたたいて作っていたそうです。そのご、そこで身につけた整備技術で独立して、バスなどの内装改造や板金などで生計を立てていました。路線バスの料金支払機が家の中に転がっていました。塗装で使う、シンナーも一灯缶でありました。
ではでは、また・・・。