◆とにかく暑い、暑すぎる・・・そんな訳で「赤煉瓦」にまつわる地元話の続きへと向かいます。
どうもffです。
東京地方、雨の日以外は猛暑って感じで30度超えが続いています。今日、日曜日も暑かったというか、まだ、暑い・・・。陽が落ちてきていくらか気温も落ち始めては居ますがね。
そう、でも考えたら「梅雨明け」宣言は、まだ、確か・・・沖縄だけだったような気がします。しかし、個人的には「梅雨明け」しているって思っている人が多いように思います。あくまで梅雨明けは一つの規準があって、それを満たさないと気象庁も明言しないわけですしね。因みに梅雨明け条件って、何でしょうね。意外に知らなかったりするので、少しだけ引っかけてみました。その結果が以下のものです(規準自体は幅があるようなので、唯一コレって感じではないらしい)。
▼【梅雨明け条件】
・太平洋高気圧などによって北へ押し上げられる
・南下してそのまま上がってこない
・など
そういえば梅雨明けしないままってのも過去にありましたが、どこまで梅雨明け宣言は期限かといえば、どうやら「立秋の二日後」みたいです。その後は、結局、秋となり「秋雨前線」という言葉が出てきてしまいます。
一応、今年は気象庁的には、7月20日前後としているようですが、私の中でも既に梅雨明け感覚ですが・・・。
おっと、またまた、最初から脱線してしまいました。これだけ暑いと、その話題に触れないわけにもいかない心情をわかってください(苦笑)。
さて、本題の「赤煉瓦」に話しを戻したいと思います。
赤煉瓦造りの建物は、多くは明治頃から多く建てられた印象があり、工場だったり酒造場だったりと、住むというよりは何かを作るための建物の多くが、煉瓦作りのようです。倉庫も忘れてはいけませんね。
では、なんで煉瓦なのでしょう。コンクリートは近代ですから、だとすると木造でもいいように思いますが。。。
北区の中央図書館、ここも赤煉瓦の建物を利用したものです。
この図書館、元は赤煉瓦倉庫(1919年築、旧陸上自衛隊十條駐屯地275号棟)であったものを改装し増築を施し2008年6月28日に北区中央図書館として生まれ変わり運営をしていねのです。
赤煉瓦部分に増築した形で図書館となっていて、赤煉瓦部分がカフェとして利用していて、持ち込みも可能たせそうです。
北区の特徴としては、戦前は陸軍の軍事施設や軍需工場が数多くありました(赤煉瓦作りの施設が多かった)。戦後は、一部が自衛隊の駐屯地となっていましたが、その多くは民間転用活用されています。この中央図書館は、旧日本陸軍の弾薬保管を主とした倉庫でしたが、その利用も役目を果たし終え、活用した結果がオシャレな北区の中央図書館となったのです。
区営ですから蔵書数が誇れる程の数ではありませんが、ちよっと雰囲気の違った図書館の空気を感じられる落ち着いた空間が魅力にはなっています。北区の施設なので区民限定という認識をもたれるかもしれませんが、図書を借り受けるための図書カードも区民以外でも作ることができます。
近隣区にお住まいでしたら利用されても良いかもしれません。
色々なところで赤煉瓦施設を再利用したものが多くありますが、本当に独特の落ち着いた雰囲気を煉瓦は感じさせてくれます。夏期などは、涼しい建物というイメージも強く持っていたりします、私的にですが・・・。
さて、その他にも北区には、赤煉瓦酒造工場や赤煉瓦の歩道などもあります。私が子供の頃は、至る所に赤煉瓦の建物が多く点在していましたが、ある時期から一気に取り壊されたりして、団地へと変貌をとけで現在に至っています。
では、今回はこの辺にして、また、続きは今度へ・・・。
◆煉瓦にまつわる土地、それは。。。
少しご無沙汰のffです。
私事が多忙の極みとなり、ブログ更新まで手が回らない状況が続いています。人生、色々のあるものだと実感している毎日です。少しでもと、思い、ペンを取りました(古い言い回しです)
タイトルに煉瓦というキーワードを入れてみました。基本てには、地元話題に関連した内容でブログを構成しています。そこで'煉瓦'のキーワードが地元、北区王子を中心にどう関係するのか、触れてみたいと思います。
煉瓦、赤レンガといったい方がなじみはあると思います。赤レンガで皆さんが想像するのは、横浜の赤レンガ倉庫だったり、北海道札幌のビール工場跡地とか、比較的、全国の古い倉庫はレンガ作りで、観光スポットになったりします。あっ、網走刑務所もレンガイメージですね。
明治の頃から昭和初期は、レンガ作りの倉庫など建物として多かったことが、その背景にあり、独特の雰囲気があって、違う形で再利用されていたりします。
さて、そんな事情を踏まえて、いよいよ本題に突入します。実は、北区の王子や滝野川など、この界隈には赤レンガの建物が多く点在していました。私の子供時代、昭和40年代頃は、立ち入り禁止出下が、そのまま残っていた記憶があります。子供ですから忍び込んだ記憶もチラホラあったりましす。中の記憶がまったくないのは、なんなのかと思ったりしています。
では、いったい何に利用されていた赤レンガの建物かといいますと、北区の場合は軍事関係に集中していて、多くは兵器を作っていたようです。弾丸や砲弾もかなり作っていたようです。なので、その関係の赤レンガ工場といったい方がよいでしょう、多く点在していたのです。詳しくは、次のブログで触れたいと思いますが、多くは取り壊されましたが、一部は再利用され、今は図書館になっていたり、区の施設に改修されたりしています。残念ながら観光スポットとしての利用は軽微な結果です。
では、続きは、次に!
車内から立ちスマホでの書き込みより。
◆田端といえば・・・。
どうもffです。
急に肌寒くなってしまった感じです。
この歳になると気温差に体がついて行けずに調子が乱れてしまいそうで、厳しさを感じている今日この頃です。
さて、地元話題で進行している我がブログ、今度は、隣の隣にある田端について少し触れてみます。特にその土地で、何か有名なものはないかと考えるが、何も出てこない。地元ならではの灯台もと暗し的な発想から、足元が見えない感じです。以外に地元って済んでる人間より、他方の人の方が詳しかったりします。特に名物名所とかは・・・。
自分なりに考えて思い浮かんだ光景に、そういえば田端って電車の車庫があり、それもヵなり広いし、色々な電車が止まっているのを、通勤時に見かけること数十年っていった感じです。そう、改めて調べたら電車が沢山あるはずだと実感したのは車両基地だからの理由を噛みしめることになったとのでした。ある時代は、寝台車の機関車が、今は実に様々な新幹線があるのを見かけます。電車がすっぽりと入ってしまう、車庫や上下左右に巨大ブラシが並ぶ、電車用の洗浄機とか・・・。
もし、立ち寄ることがありましたら、様々な新幹線を観ることが出来ます。出払っているときに来ても線路が沢山あるだけですけどね。
ではでは、また・・・。
◆洋紙発祥の地、しかし、今は面影もない!
どうもffです。
前回、都電に触れてみました。私の住む王子というところで、関係性が高いものの一つとして・・・。
さて、都電とくれば、次は、と、考えてみたら、やっぱり「洋紙発祥」というキーワードがでてきました。昔は王子駅前のすこし外れにあった紙の博物館も今は飛鳥山に移っています。その「紙」のイメージに合致するのが王子という地にあります。そうそう、紙で思い出しましたが、駅前に大蔵省造幣局の研究所があり小展示室もあります。王子を含む北区には造幣局工場が滝野川にあり、紙幣専用の紙を作る工場が王子駅の隣駅、上中里駅にあったりします。何かと「紙」にまつわるのは不思議に感じます。
さて、私が子供の頃の話になります。かなり小さい(小学校前)頃になりますが、近所に十條製紙の広大な工場地で広がっていました。母親も十條製紙で働いていて、周囲に住んでいる人たちは、やはり多くは工場で働くことを目的に集まってきて住んでいたような印象があります。母も働いていましたが、よく、紙を扱う上で指を切るらしくテーピングをしている手の印象に強く残っています。また、王子は色々と工場も多く、工場の町といったい印象を強く感じていました。豊島の方には、科学工場もありモクモクと煙たなびくって光景が随所にありましたね! とにかく工場がおおかったと。
今、考えると、広大な十條製紙や科学工場(住友化学だったかなー)があるわで、環境的には良くなかったような感じですが、今はに流石に町は変貌をしてしまい、当時の面影はありません。十條製紙の跡地は団地やマンションになっています。ローカルになりますが「王子五丁目団地」は、十條製紙の跡地の一部だったんです。
「歴史的農業環境閲覧システム」より
そうそう、十條製紙の工場から直接、貨物で巨大なロール紙を運び出すための鉄道が引かれていました。そう「引き込み線」ってやつですね。それが、王子駅へと続き、そして当時の国鉄の線路に合流していました。王子駅の横の大きな敷地には日通もあり、当時、戦車など自衛隊関係の特殊車両が乗せられた貨物を良く見たのを覚えています。
【十條製紙の歴史】
1873年(明治6年) 渋沢栄一により「抄紙会社」設立
1875年(明治8年) 東京府下王子村に工場完成
1876年(明治9年) 商号を「製紙会社」に変更
1893年(明治26年) 創業地の名を冠し、「王子製紙」と改称
1910年(明治43年) 北海道に新聞用紙の国内自給目的の苫小牧工場完成
1933年(昭和8年) 富士製紙、樺太工業を合併、全国洋紙生産高80%生産
1949年(昭和24年) 王子製紙、過度経済力集中排除法で3社分割
東証一部に株式上場
1962年(昭和37年)自分が産声をあげ誕生(王子の隣町、豊島)
だったか、休憩所だったか母に連れられて入った記憶がある。
「広い敷地」という印象が濃厚で、社宅も敷地内にあったようです。
洞窟とかないのに、夜になるとコウモリがやたらに飛んでいたのを
覚えています。
1973年(昭和48年) 8月31日 十條工場閉鎖(数年間は空き地になり、良く、
遊ぶために入り込みました)ここで王子の地から製紙工場が消えた訳
です。
1993年(平成5年) 十條製紙が山陽国策パルプと合併、日本製紙株式会社に
社名変更
▲十條製紙時代のMAP
※この範囲内に、自分の家もありました(現在も同じ場所)。
当時は平屋の木造一階建てです。居間に6畳が二間、狭い台所あり。
現在、王子駅前の「サンスクエア」は、昭和43年8月6日に日本製紙株式会社
全額出資により誕生した複合レジャー施設なんです。製紙会社による経営ですね。
http://www.npd.jp/sun/shop.html
機会があれば、母親に当時の十條製紙の様子を聞いてみて、ここに載せられたらと思っています。
因みに父親は、当時の富士重工で働いていて、スバル360をたたいて作っていたそうです。そのご、そこで身につけた整備技術で独立して、バスなどの内装改造や板金などで生計を立てていました。路線バスの料金支払機が家の中に転がっていました。塗装で使う、シンナーも一灯缶でありました。
ではでは、また・・・。
◆王子といえば都電でしたね・・・。
ffです。
王子といえばなんでしょう。
狐、稲荷、洋紙、桜とか・・・一部、少し触れてきました。そして、少し脇道にそれて「赤羽」の微かな思い出を語りました。まだまだ、色々とあるのですが、やつぱり今の東京という言葉、近代的なイメージが強くなりすぎて、「都電」という少しノスタルジックなイメージから離れた感じを受けていたりします。当時は、都民の足として縦横無尽に道路の真ん中に線路が引かれ、そして、電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされていました。私も子供心に、その印象は強いですね。伝染が道路を覆うように格子状に張られていたんです。都電の通る道全てに・・・。
都電の停車駅は、道路の真ん中にあって道路を渡って都電の駅に入るといった感じを覚えています。なんか道路の真ん中なので渡のが怖かったし、渡り終われば離れ小島にいるような感覚。左右は自動車が行き来していて川の流れのど真ん中というような状況。。。少し、怖いなって、思いも私の心にともりました。
今の都電は近代的なデザインになってしまって、郷愁を誘うという感じではないようにも感じつつ、きっと、今の都電を何十年後かに今の子供や若者世代が見ると「懐かしい」と郷愁を抱くのかもしれません。
私としてはこの形が都電として心の奥にある形なんです。
この画像、ネットで見つけたものですが。このシーン、上にかかる陸橋は王子駅、当時、国鉄時代の京浜東北線のものです。貨物も当時はかなの多く走っていましたし、十條製紙から繋がった線路では、パルプが運ばれ用紙に加工された、巨大な紙のロールが積まれた貨物もありました。
因にこの画像、奥が飛鳥山からの坂を下りてきて陸橋の下をくぐり、都電王子駅前駅に入るためにカーブしているところです。
カーブすると下の画像、はい、都電の王子駅です。
妙に懐かしいですね。
この画像で線路が切れているでしょう。これは荒川線だけになるまえに走っていた線路なんです。赤羽方面に向かって北本通りの真ん中に都電の線路が伸びていました。ルート的には、地下鉄の南北線に近いかもしれません。
概ね、バスの路線が当時の都電の多くのルートをカバーしてしまったということになりますがね。
今回は、この程度で・・・。