◆田端といえば・・・。

どうもffです。

 

急に肌寒くなってしまった感じです。

この歳になると気温差に体がついて行けずに調子が乱れてしまいそうで、厳しさを感じている今日この頃です。

 

さて、地元話題で進行している我がブログ、今度は、隣の隣にある田端について少し触れてみます。特にその土地で、何か有名なものはないかと考えるが、何も出てこない。地元ならではの灯台もと暗し的な発想から、足元が見えない感じです。以外に地元って済んでる人間より、他方の人の方が詳しかったりします。特に名物名所とかは・・・。

 

自分なりに考えて思い浮かんだ光景に、そういえば田端って電車の車庫があり、それもヵなり広いし、色々な電車が止まっているのを、通勤時に見かけること数十年っていった感じです。そう、改めて調べたら電車が沢山あるはずだと実感したのは車両基地だからの理由を噛みしめることになったとのでした。ある時代は、寝台車の機関車が、今は実に様々な新幹線があるのを見かけます。電車がすっぽりと入ってしまう、車庫や上下左右に巨大ブラシが並ぶ、電車用の洗浄機とか・・・。

 

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もし、立ち寄ることがありましたら、様々な新幹線を観ることが出来ます。出払っているときに来ても線路が沢山あるだけですけどね。

 

ではでは、また・・・。

 

◆洋紙発祥の地、しかし、今は面影もない!

どうもffです。

前回、都電に触れてみました。私の住む王子というところで、関係性が高いものの一つとして・・・。

さて、都電とくれば、次は、と、考えてみたら、やっぱり「洋紙発祥」というキーワードがでてきました。昔は王子駅前のすこし外れにあった紙の博物館も今は飛鳥山に移っています。その「紙」のイメージに合致するのが王子という地にあります。そうそう、紙で思い出しましたが、駅前に大蔵省造幣局の研究所があり小展示室もあります。王子を含む北区には造幣局工場が滝野川にあり、紙幣専用の紙を作る工場が王子駅の隣駅、上中里駅にあったりします。何かと「紙」にまつわるのは不思議に感じます。

 

さて、私が子供の頃の話になります。かなり小さい(小学校前)頃になりますが、近所に十條製紙の広大な工場地で広がっていました。母親も十條製紙で働いていて、周囲に住んでいる人たちは、やはり多くは工場で働くことを目的に集まってきて住んでいたような印象があります。母も働いていましたが、よく、紙を扱う上で指を切るらしくテーピングをしている手の印象に強く残っています。また、王子は色々と工場も多く、工場の町といったい印象を強く感じていました。豊島の方には、科学工場もありモクモクと煙たなびくって光景が随所にありましたね! とにかく工場がおおかったと。

 

今、考えると、広大な十條製紙や科学工場(住友化学だったかなー)があるわで、環境的には良くなかったような感じですが、今はに流石に町は変貌をしてしまい、当時の面影はありません。十條製紙の跡地は団地やマンションになっています。ローカルになりますが「王子五丁目団地」は、十條製紙の跡地の一部だったんです。

f:id:freefox:20170606212052j:plain「歴史的農業環境閲覧システム」より

そうそう、十條製紙の工場から直接、貨物で巨大なロール紙を運び出すための鉄道が引かれていました。そう「引き込み線」ってやつですね。それが、王子駅へと続き、そして当時の国鉄の線路に合流していました。王子駅の横の大きな敷地には日通もあり、当時、戦車など自衛隊関係の特殊車両が乗せられた貨物を良く見たのを覚えています。

 

十條製紙の歴史】

 1873年(明治6年) 渋沢栄一により「抄紙会社」設立
 1875年(明治8年) 東京府下王子村に工場完成
 1876年(明治9年) 商号を「製紙会社」に変更
 1893年(明治26年) 創業地の名を冠し、「王子製紙」と改称
 1910年(明治43年) 北海道に新聞用紙の国内自給目的の苫小牧工場完成
 1933年(昭和8年) 富士製紙、樺太工業を合併、全国洋紙生産高80%生産
 1949年(昭和24年) 王子製紙過度経済力集中排除法で3社分割

     苫小牧製紙、本州製紙十條製紙

     東証一部に株式上場

 1962年(昭和37年)自分が産声をあげ誕生(王子の隣町、豊島)

     母親は、十條製紙の従業員、小さいながらにも十條製紙内の食堂

     だったか、休憩所だったか母に連れられて入った記憶がある。

     「広い敷地」という印象が濃厚で、社宅も敷地内にあったようです。

     洞窟とかないのに、夜になるとコウモリがやたらに飛んでいたのを

     覚えています。

 1973年(昭和48年) 8月31日 十條工場閉鎖(数年間は空き地になり、良く、

     遊ぶために入り込みました)ここで王子の地から製紙工場が消えた訳

     です。

  1993年(平成5年) 十條製紙山陽国策パルプと合併、日本製紙株式会社に

     社名変更

 

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十條製紙時代のMAP

※この範囲内に、自分の家もありました(現在も同じ場所)。

 当時は平屋の木造一階建てです。居間に6畳が二間、狭い台所あり。

 

現在、王子駅前の「サンスクエア」は、昭和43年8月6日に日本製紙株式会社

全額出資により誕生した複合レジャー施設なんです。製紙会社による経営ですね。

http://www.npd.jp/sun/shop.html

 

機会があれば、母親に当時の十條製紙の様子を聞いてみて、ここに載せられたらと思っています。

因みに父親は、当時の富士重工で働いていて、スバル360をたたいて作っていたそうです。そのご、そこで身につけた整備技術で独立して、バスなどの内装改造や板金などで生計を立てていました。路線バスの料金支払機が家の中に転がっていました。塗装で使う、シンナーも一灯缶でありました。

 

ではでは、また・・・。

 

◆王子といえば都電でしたね・・・。

ffです。

王子といえばなんでしょう。

狐、稲荷、洋紙、桜とか・・・一部、少し触れてきました。そして、少し脇道にそれて「赤羽」の微かな思い出を語りました。まだまだ、色々とあるのですが、やつぱり今の東京という言葉、近代的なイメージが強くなりすぎて、「都電」という少しノスタルジックなイメージから離れた感じを受けていたりします。当時は、都民の足として縦横無尽に道路の真ん中に線路が引かれ、そして、電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされていました。私も子供心に、その印象は強いですね。伝染が道路を覆うように格子状に張られていたんです。都電の通る道全てに・・・。

 

都電の停車駅は、道路の真ん中にあって道路を渡って都電の駅に入るといった感じを覚えています。なんか道路の真ん中なので渡のが怖かったし、渡り終われば離れ小島にいるような感覚。左右は自動車が行き来していて川の流れのど真ん中というような状況。。。少し、怖いなって、思いも私の心にともりました。

今の都電は近代的なデザインになってしまって、郷愁を誘うという感じではないようにも感じつつ、きっと、今の都電を何十年後かに今の子供や若者世代が見ると「懐かしい」と郷愁を抱くのかもしれません。

 

私としてはこの形が都電として心の奥にある形なんです。

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この画像、ネットで見つけたものですが。このシーン、上にかかる陸橋は王子駅、当時、国鉄時代の京浜東北線のものです。貨物も当時はかなの多く走っていましたし、十條製紙から繋がった線路では、パルプが運ばれ用紙に加工された、巨大な紙のロールが積まれた貨物もありました。

 

因にこの画像、奥が飛鳥山からの坂を下りてきて陸橋の下をくぐり、都電王子駅前駅に入るためにカーブしているところです。

カーブすると下の画像、はい、都電の王子駅です。

 

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妙に懐かしいですね。

この画像で線路が切れているでしょう。これは荒川線だけになるまえに走っていた線路なんです。赤羽方面に向かって北本通りの真ん中に都電の線路が伸びていました。ルート的には、地下鉄の南北線に近いかもしれません。

 

概ね、バスの路線が当時の都電の多くのルートをカバーしてしまったということになりますがね。

 

今回は、この程度で・・・。

 

●地元話が基本なんですが、キーワードとして「狐」から展開しています。少し、たちもどって地元地域に話を・・・「赤羽」

ffです。

狐絡みの話は一端小休止して、地元話題に少し戻ってみます。

因に地元わだいですが、済んでいる場所というより住んでいる区域の範囲内としています(東京でも下町の北区)。その点、ご理解ください。

 

今回、地元でも多少は知名度があるのではないかと思う「赤羽」という土地の歴史に触れてみようと思います。意外に、地元といっても肝心なところは無知に近かったりします。幼いころの思い出では「赤羽」には映画を見に行っていたイメージしかない。それも「東映まんが祭り」、毎回です(赤羽の映画館の無料券が劇場勤務者の親類から貰っていた関係でです)。

 

えっその頃の東映まんが祭りの内容はですか・・・(苦笑)。

例えば「マジンガーZ」シリーズとか、実写特撮では「ガメラ」シリーズとかです。昔、巷では「ゴジラ派」とか「ガメラ派」とかいうのがローカルですがありまして、私はもっぱら「ガメラ派」でした、理由は、上述の通りに無料で毎回見にいっていたので必然的に「ガメラ」しか見ていない(東映系劇場なのです)。ゴジラ東宝系なので、無料券は手に入らないという、単純な理由なのです。

 

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よき時代、昭和40年代といった感じでしょうか。

 

ではでは、また、続きは今度に・・・・。

 

 

◆地元、王子の狐から端を発した話ですが。。。

どうも、ffです。

おっと、freefoxです。お忘れなきようおねがいします。

前回、九尾の狐から妖狐の話に触れました。けっして詳しくは説明はしていませんが、お許しを。機会を見つけて、掘り下げたいとは思っています。

 

前回の話で心残りがあったので、そのことに触れたいと思います。九尾の狐とくれば、忘れていました。有名な話を。「えっ、はい、そのとおりです!」

 

現在の那須高原にある「殺生石」です。今も危険なので近づけません。柵越し数十メートル先にある殺生石を見ることになります。

 

伝説的な由来のある石碑?なのでしょうかね。伝説的と言えば、瞬間的思い出すのが丸の内都心部にある「平将門」の「首塚」ですかね。京都で謀反人として斬首されさらされた首が関東に舞い戻り落ちた場所です。当時は関西、京都が中心でしたから、それを関東にしようとした平将門は捕らわれ処刑され、今宵の地に舞い戻ったという伝説です。

 

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おっと、脇道にそれました。失礼しました!!

本線に戻しますね。

 

殺生石に話しを戻しまして、

九尾の狐の恨み辛み怨念で近寄るものを全て殺傷するという端的な意味合いがあるのですが、とどのつまりは科学的に付近一帯には硫化水素やら亜硫酸ガスが噴出していて、当たり前だがそんなの吸い込みゃー死んでしまうという結末があるわけでして、火山で地殻が活発な地域ではありうる話であることは十分に理解出来てしまうという寸法です。実際に私も何度か観光で訪れています。かなり硫黄臭の強い印象が残っています。そんな殺生石、見学しながら当時は伝説を思い浮かべて見ていました。

 

怪奇妖怪不思議ものには妙に興味があるので、それは仕方ない思考だと思っています。(苦笑)

 

鳥羽上皇が寵愛したという伝説の女性が妖弧の化身が、正体を見破られ逃げた後に、この地で討伐され石となったという逸話なんです。その妖弧が九尾の狐ってことで、同様の話は中国などでも存在するようです。その後、至徳2年に玄翁により打ち砕かれ、そのかけらが全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したとされる。

 

玄翁によって砕かれた殺生石が飛来したと伝えられる地は三箇所以上もあり、岡山県真庭市勝山には、玄翁の開山による化生寺境内に、殺生石の石塚が存在する。また、これも玄翁の開山とされている、福島県の表郷中寺、常在院境内にも、殺生石の破片と言われる石が祀られている。玄翁の座像と、絵巻「紙本著色源翁和尚行状縁起」が伝えられています。

 

しかし、伝説といっても語りだけではなく、その痕跡が残っているのが全て作り話とはいいがたい点も感じてはいます。話のネタとなる物品などがあるというのは、何かしらその元となる、類似した話が合ったのではとも解釈している私です。

 

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地元の話題「狐」から端を発しての話になります。

もう少し、掘り下げつつも他の地元話題から発展的な話にしていければと思っています。

 

ではでは。。。

 

◆狐とくると思い出しますか? 九尾の狐に殺生石って言葉を・・・確かに連想しました。

王子の狐から端を発して・・・

狐の話の流れから連想されるのが九尾の狐、あまりにも有名だしアニメなどにもしばし登場する妖狐(ようこ)です。狐の妖怪ってことですから人に対しては悪しき存在ということになります。

因に神社で狐=稲荷というからには、妖怪と結びつかないですよね。妖怪ど登場する狐、それが稲荷神社=神様ってことですからね。

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狐も善悪いろいろと存在するって事なので、狐の悪の代名詞が「九尾の狐」になり、稲荷神社の狐は神様ということになります。

一般的な悪い狐の総称としては「野狐」という部類になるらしいです。「善狐」は逆に良い狐って部類を指すという。野狐よりは「悪狐」とした方がストレートと思ったが、どうも、そうも呼んで差し支えがないらしい。

 

因に九尾の狐、その名の通り九本の尾があるが、それは長年かけて妖力をまして尾が増えて九本になったとのことです。だとすると妖力が増せば増ほど尾が増えるって寸法だとすると、十尾の狐とか十二尾の狐とか百尾の狐って感じになっていくのかなと思います。

 しかし、妖狐を調べていくと逆に尾が減っていって最後はなくなってしまうようです。神に等しいとされる天狐は尾が四本になります。良い狐も1000年以上生きると「天狐」となるそうで、千里眼をもって何でもお見通しって能力を持っているようです。そして、もっと生きて3000年超では、「空狐」になって尾がなくなるみたいです。単純に増えるんじゃなくて、逆に減って最後はなくなるんですね。「へー」って感じです。

妖狐の位がありますが、空狐は妖力は最強なのに順位は二番目、一番最上位は天狐なんだそうです。何でって感じるので、暇があったらもう少し調べてみます。

 

実態として見えるのが野狐で、それ以上は霊的な存在になるので実態としては見えないということみたい。あえて実体化して姿を現さない限り、通常は側にいても見えないということです。

 

そうそう、空狐が残したとう書き物があるそうで、ちょっと掲載してみます。

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今回は、この程度にしておいて、次へと参りたいと思います。

さて、どんな話題に触れてみようかなぁーといった感じです。

 

ではでは、失礼します。

 

 

 

 

◆狐火ってどういうことなのか!?

こんばんは、ffです。

狐火って言葉はなんとなく神秘的な感じがするのは私だけでしょうか? なんか言いしれぬ何かを感じてならないんですよね。「狐火」って言葉で調べると色々とでてきますが、その由来らしい説明のものを見つけたので載せてみます。

 

世界大百科事典 第2版の解説
▼きつねび【狐火】
キツネがともすとされる淡紅色の怪火。単独で光るものもあるが,多くは〈狐の提灯行列〉とか〈狐の嫁入り〉とよばれるもので,数多くの灯火が点滅しながら横に連なって行進する。群馬県桐生付近には結婚式の晩に狐火を見ると,嫁入行列を中止して謹慎する風習があったという。江戸の王子稲荷の大エノキの元には毎年大晦日に関八州のキツネが集まって狐火をともしたといわれ,その火で翌年の吉凶を占う風もあった。狐火がよく見られるというのは,薄暮や暗くなる間際のいわゆるたそがれどきとか翌日が雨になりそうな天候の変り目に当たるときであり,出現する場所も川の対岸,山と平野の境目,村境や町はずれといった場所で,キツネに化かされる場所とも一致するようである。

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ではでは、また・・・。